ヒザイミズキの、日々の旅 ブログ編

(元)俳優、ヒザイミズキの日々は旅のように。

引っ越し

長年使っていた「はてなダイアリー」から「はてなブログ」に引っ越しました。

理由は、はてなダイアリーは公式スマホアプリがなくて更新が難しかったからです。

でもだからと言って、更新頻度が劇的に上がるとも思えませんがね。

 

今年度からも、「ヒザイミズキの、日々の旅。」をよろしくお願いいたします。


f:id:zaikichi:20170401184505j:image

写真は春の樹皮に生える苔。もこもこ。

朝焼け、稽古、時間堂の遺品。

やっと晴れ、と思ったら夕方ひと雨。まだ肌寒いけど、毎年着る機会が少ない春物のコートを無理やり着る。
明け方、目覚ましが鳴る前に目が覚めると、細い窓から真っ赤な朝焼けの光が差し込んでいて、このまま起きるかもうちょっと布団に入っているか悩んでるうちに、フツーの、ただの、色のない朝日になってしまった。
子どもが起きてしまうのを気にしてたけど、起きてしまったとしても、真っ赤な朝焼けを見れば良かったかも、と思った。

キコ『Lullaby』の稽古は、台本まだ完成してないし配役も確定してないけど、初めて立ち稽古。

「芝居に対する変な自尊心」を棄てられたら、きっともっと楽になれるのにな。とつくづく思う帰り道。どういう心の置き方をしていくか、まだ手探り。

帰宅すると、ポストに時間堂の遺品(劇団グッズ)が届いていた。解散してから買った。自分の劇団ながら、手作り雑貨屋さんとしてなかなかのモンだと改めて思う。さすがスウさん。

SNSを見たら、クラウドファンディングしてくれた皆さまには、最終公演『ローザ』のDVDが届いている模様。私はまだ持ってないけど。特典映像で、さよならパーティ?みたいなやつも入ってるらしいです。あとトークとか。

土曜日に思いっきり噛んだ舌が痛くてたまらん。滑舌にも支障があるし。まったく。

「集団的優しさ」の圧力

一転して晴れの本日。東京の桜は昨日開花だとか。

「優しさ」について、ここ2ヶ月くらい考えている。

私は、「集団的優しさ」が苦手。

個人による、個人に対する優しさは、とても嬉しい。私が辛いとき、声をかけてくれる。私が嬉しいとき、一緒に喜んでくれる。気遣ってくれる。そんな「優しい人」、私の周りにたくさんいる。
好きです、優しい人。

けれどひとたび場が「集団」になると、優しさがとたんに息苦しくなる。集団で、みんなに見える所での「気遣い」。マナーと言うには繊細すぎる暗黙のルール。
ナチュラルボーン・優しい人にとっては何でもないような、ほんのちょっとした気遣いの言動が、私のような「そうでない人」にはできない。でもみんなやる。右に倣えで、見える所で、気遣いを見せる。「私もやってますよ」というサブテキストが見える。
「私もやってますよ」が過半数を占め始めると、「あなたはやらないんですか?」という無言の(たまに有言の)圧力が発生する。
「集団的優しさ」は「優しさの強制」を生む。

その空気に、ルールに、「ちょっとした気遣い」の「ちょっとした強制」に、
私は、馴染めない。

「集団的優しさ」ではなく、「優しい個人の集まり」にいたいんだ、という、最近の発見。


写真は、去年出会った「優しい人」。勝手に載せてごめんなさい。m(_ _)m

良くないことを良くないと言うとき

朝から雨で、一日中雨。
連休明けだが会社を休んで、某高校で演劇を使ったコミュニケーションワークショップ。
悪気無く、ノリでルールを破ってメチャクチャにしてしまうチームがあり、こういうときどういう態度をとっていいか、非常に悩んだ。
先月、某小学校でも「ある生徒のふざけた一言で、全体の良い流れが断ち切られる」っていう瞬間があって、その時も悩んだ。
悪気が無くても、良くないことは良くないと言うのは大事。それを言わなきゃ、何しに来たかわからない。でも、その言い方ひとつ、伝え方ひとつで、生徒の心にどれだけ負荷がかかるのかは、見た目ではわからない。

足が遅かった小学校時代、運動会が終わった時に、
悔し泣きしているリーダー格の女子に
「あんたのせいで負けた」
と言われた記憶が、何十年か経ってもまだくすぶっている。

相手より立場が強いとき、強ければ強いときほど、気をつけなきゃいけないな、という自戒でした。
実際にはどちらのケースも、先輩方の真摯な対応をみて、勉強になりました。