ヒザイミズキの、日々の旅 ブログ編

(元)俳優、ヒザイミズキの日々は旅のように。

ゆきとふじにっき

きょうは都心で初雪というので、朝起きてまっさきに風呂場の窓から公園をみた
なーーんもない
雨すら降ってない

昨日の天気予報の時点では「雪とか超めんどくせー」と思っていたのに、
朝になると真っ白な一面の雪景色を期待してわくわくしてしまう子供心

富士日記〈下〉 (中公文庫)

富士日記〈下〉 (中公文庫)

富士日記(上・中・下)」読了
去年の10月くらいから読んでいるので、ずいぶん長くかかったけれど、
そこは日記だけに、なんだか著者と一緒に秋や冬や春や夏を過ごしているような。
人の一生をドキュメンタリーとして観ているような。
「文学」ではなく「人生」を読んだ。そういう気分。
そして、このひとの人生は、本当に面白い。すばらしい。
「生きる才能」というやつを、限りなく持っている、
そういうひとを、わたしは本当に、すばらしいと思う。
好きになった。



ところで、
夫の泰淳氏ががんでなくなるまでの日記なんだけれど、
なくなる数週間前まで「がん」だって知らずに、
うなぎを食べたりケーキを食べたり賞の選考をしたりして暮らしている。
それを著者は「無理させていた」と後悔しているみたいだけど、
なんて幸せな「末期がん」だろうと思う。
「死ぬまで暮らしていく」こと。それが今の時代ではとても難しい。


たとえば「早期発見」が良いって、それが今の常識で、
確かに助かる確率は高くなるのかもしれない。
けれど、「あなたは死ぬ病気です」と余命を宣告されて、
入院させられて、好きなこともできず、手術を繰り返し、再発し、延命し。
何ヶ月も何年もの間、恐怖と絶望と戦うことが一番の命題になり。
「暮らしていく」ことは最早できない。



人は(生き物)死を選べない。
選択の余地はない。
選べないものを、宣告されたいだろうか。
「延命治療か安楽死か」なんて選べる人間はいるのだろうか。
「わたしは自分で選択したいので、ちゃんと知らせてほしい」というのは、
それはおごりじゃないか。


なんだか本の感想ではなく、極端な話になってしまった。
反対の意見も、もちろんわかります。
もう引き返せないところに来ているのも、わかります。
ただ、
(自分の、身内の)死を宣告される時代。
天命も神様もいない時代。
それでもどうやって、「ちゃんと暮らしていく」か。
それが問題だ。
それが才能かもしれない。