ヒザイミズキの、日々の旅 ブログ編

(元)俳優、ヒザイミズキの日々は旅のように。

表現と距離

知り合いの芝居を観にいった。別にネット上で批評したいわけじゃないので名前は書かないけれど、別の人が作・演出する2本立てで、今回が2回目の公演だ。
前回とまったく同じように、
1本目は面白くなくて、2本目はそこそこ面白かった。
それは予め予想されたことで、「2本目は面白いんだろう」という(私の)期待がなければ観ていられないだろうなと思う。

ここで「面白い/面白くない」という言葉を使うと、なんだか好みの話をしているようでしっくりこない。別に2本目が私好みの作品というわけでもない。
私個人の実感で言えば、
1本目は、「表現」になっていない。
2本目は、「表現」になっている。
「表現」になっていないわけだから、好き嫌いや出来不出来、値段に相応か、等、議論できるレベルにはない、と思った。一応但し書きしておくと、「表現」になっていない芝居(公演)ってすごく多いし、自分も含めて、他人事ではないなと思っている。

私がこうやって書きなぐっているブログは「表現」では無くただの日記、小説家やエッセイストが「表現」として書いている文章とはチガウと思う。

では1本目が表現と言えるレベルにない、のは、何が原因なんだろう?何が2本目との決定的な違いなんだろう?と考えると、
役者の質は(前回と考え合わせて)差が無いし、あるとすれば演出の差だろう。
じゃ演出の何が違うのか?

そこで思ったのは、「距離がとれているかどうか」なんじゃないか。
演出家が、
 自分 と 自分が書いた脚本 との距離
 自分 と 出演者・スタッフ との距離
 自分 と 自分がつくりたい世界(作品) との距離
が、ぜんぜん取れてない。べったりとくっついている。突き放して見ることができない。
私は、もともとその作品に対して距離のある観客であるから、突き放して見ることになる。
そういう「客=他人」 に「見せる」のが「表現」なのだから、そのためには表現者自身が一度、作品との距離をとらなければいけないのに、そうなってない。


小説家は自分が書いた文章を、一度「読者」として読み返し、「読者=他人」にみせるものとして再考すると思う。
役者も同じように、自分自分と 自分が表現するもの の間に「距離」がないと見ていられない。
「自分と自分のやろうとしていること」の距離が取れていない場合は、確実に「自分と他人との距離」も取れていない。
他人と言うのは「相手役」「演出家」「観客」であり、距離がとれていないというのは言い換えると、
「自分が何か言えば相手はわかるものだ」と思っている
「相手も自分と同じように感じるだろう」と思っている
ということだ。
でも実際はもちろんそうではないから、伝わらない。
伝わるとしたら、親兄弟とか恋人とか仲良しの友達とか、つまりもともと距離の近い人だけだ。距離が近い人だって伝わらない場合が多いけれど、「伝わった気になる」というか、大目に見るというか、正常に判断できないことが良くある。そういうのを「内輪ウケ」っていったりするわけだけど。


その人が考えていることが「面白い、面白くない」とか「良い、悪い」という以前に、表現として成立するレベルにないというのは、とても重要だしとてももったいないことだ。
だってすごく面白いことを考えてる可能性だってあるわけだから。
でも簡単にできることでは決してない。公演を打つことの方がすっと簡単だ。仲良しの人が何人かいればできるから。
その、「表現」として成立させるための一歩として、
周りの「近い人」たちが、ちゃんとその作家や作品に対して「距離をもって接する」というのが、逆にその作家や作品を「他人」にみせる「表現」にする役に立つんじゃないか。


そう思った。自戒をこめて。